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孫たちへの伝言
物心付いた頃じいちゃんは波崎の町に住んでいました。 丁度、渡船場付近の棟割長屋の一番奥に親子四人で住んでいました。じいちゃんの人生をふりかえるとき、まず最初に思い出すのは、波崎の町に住んでいたときのことでした。4歳の時に岸壁から落ちてしまいまい、おぼれて死んでしまいそうになった出来事は一生忘れることが出来ません。 まだ、泳ぐことは出来ませんでした。水の中で必死にもがいて水面に浮かび上がった、その時、目の前に漁船を舫であったロープがぶら下がっていました。水の中でもがいていたじいちゃんの手がそのロープに触ったので、そのロープに必死でしがみ付きました。 その時、漁船を見回りに来ていたお兄さんがもがいているじいちゃんを見つけて、小さな船から船へと飛び越えながらじいちゃんと助けに来てくれのがじいちゃんの眼に映ったのを最後にじいちゃんの意識はなくなってしまいました。 気がついたときは陸にいました。助けられた瞬間は記憶にないけれど、あのときの光景は決してじいちゃんの記憶からは消え去ることはありません。70年たった今でも鮮明に眼に焼きついています。 じいちゃんんの人生は、これまでに絶体絶命の命の危機をさんども乗り越えてきました。本当の命の綱です。だからじいちゃんは運命の神様に感謝するとともに、世の中の皆さんにお返しをしたいと心の中で願って人生を送ってきました。これからも。 じいちゃんが岸壁から落ちたのは、悪戯がもとでした。それと、なぜか、スパナ(州鼻)の地名だけが4歳の子供の記憶に残っていました。その昔母親に手を引かれて行った場所が州鼻でした。 PR 大総督 菅谷実芳(写真左) 馬 肩 沼田正雄 大総督補佐 菅谷 隆秀(写真右) 馬 肩 山中 和美 写真(上) 出所:週刊朝日百科 日本の祭りより。「馬肩に肩車された甲冑姿の大総督(幼児)を鹿島の神の化身とし、300人ほどの囃人を従えて練り歩く(国の無形民俗文化財)五穀豊穣、天下泰平を願う祈年祭で、その一説には「防人伝説」も長く言い伝えられてた。 写真(下)鹿島神宮大鳥居と参道 62年前、小学校の遠足にじいちゃんは家が貧乏だったので、ばあちゃんに靴が欲しいといえなかったので、じいちゃん一人が裸足で大鳥居をくぐり、参道を歩いて鹿島神宮にお参りをした。「孫たちの伝言」NO.1小学校の思い出を参照。 祭頭祭 平成16年3月9日 あの日、じいちゃんが裸足で歩いた同じ参道を、右方賀郷の大総督として馬肩さんのおじさんに肩車されて大喜びしながら大役を果たしているおまえたちの姿を見ながらじいちゃんは肩車をしてくれているおじちゃんたちの気配りと、賀郷の皆さん方のおまえ達への思いやりの素晴らしさに、賀郷の皆さん方への感謝の気持ちと、62年前の遠い昔の子供の頃の悲しく辛かった想い出が感動の涙となって、最後の総囃子の頃には持っていた提灯で顔を隠すようにしていた。 おまえ達も大人になったら人に対しての気配りと、思いやりの大切さを身に付けて欲しい。次回からは、じいちゃんの辿った運命の軌跡を「孫たちの伝言」として記述してゆく。 【写真上】山本誠一先生 (提供:山本有明氏) 【写真下】鹿島農学校本館と第二校舎との中庭(昭和23年) (提供:鹿島高校七捨周年記念誌より) 『先生の、一言』 じいちゃんは、昭和22年4月 茨城県立鹿島農学校(現在の県立鹿島高等学校)内併設新制中学校三年生として入学しました。 この年に、学校制度が変わって、今の小学校6年、中学校3年、高等学校3年になりました。それまでは、小学校初等科6年、高等科2年までが義務教育でした。 じいちゃんの家は、貧乏で進学できる環境ではなかったが、たまたま試験を受けたら受かってしまったので、入学する事になってしまいました。 当時は、憧れの鹿島農学校に入れる事になったので、嬉しくて夜も眠れませんでした。しかし、授業料が払えなくなってしまったので、半年程で中退する事になってしまいました。あの時の悔しさは、今でもじいちゃんは忘れる事が出来ません。 だけど、たった半年でしたが、じいちゃんの人生を決定するような事が有りました。農業科の先生にライオンというあだ名の山本先生が居ました。農業実習の時間でお昼の時間になったので、畑で泥だらけになった手足を洗い場で手を洗っていた時、じいちゃんが何気なく「どうせまた汚れちゃうかんな」と言った時、隣で手を洗っていた山本先生が、私の顔を見て「どうせ腹が減るんだから飯を食っても無駄か」と、笑いながら言いました。 じいちゃんは、その後の人生で山本先生の当時の言葉を思い返しては、仕事の面ではどうせなどと投げやりな不真面目な態度は慎み、何時も真剣な取り組み方をするように心掛けてきました。こちらが真剣な態度で事に当たれば、相手もそれに応えてくれます。 それと、歴史担当の磯山先生が「反省の無いところに進歩無し」と、言われた言葉がじいちゃんの大きな財産となっています。 相手が何気なく言って呉れた言葉にこそ真実が隠されているのです。その言葉の意味を悟る事が自分の財産となるのです。 じいちゃんより 【写真上】 昭和39年撮影 じいちゃんが生まれ育った家、写っているのはじいちゃんだ 【写真下】 中央女の子(3歳年上の叔母スイ)を抱いているのがじいちゃんのお婆さんだ撮影は昭和8年頃 じいちゃんの全てはお婆さんのお陰です 「これは物置だ」 じいちゃんが17歳の時、木崎の大槻さんから「この家は」と、聞かれた時じいちゃんは思わず「これは物置だ。母屋は別にある」と嘘をついてしまった。 写真を見ればお前達だってじいちゃんの気持ちは分かってくれるだろうと思う。こんな廊下もなければ間仕切りだってない、本当のあばら屋でじいちゃんは生まれ育ってきた。 幼心にどんなに惨めで、恥ずかしかったことか今でも忘れられない。大人になってからだって口には出さないが屈辱感がいつも心の奥底にあった。 家族皆で働いても生活は苦しかったのに、ばあちゃんが一人で頑張っていても貧乏の見本みたいな家だった。生活に追われたばあちゃんがお針(和裁の先生)の仕事をしたり、近くに有った病院(白十字病院)に卵や果物などを背負って売りに行き(行商)、一家を支えていた。 大人になっても良い事はなかった。じいちゃんのお父さんは知らない女の人を連れてきて「今度の母ちゃんだ」と言った。若くてきれいな人だった。 しかし、きれいな笑顔の裏に狂気が隠されていた。被害妄想がひどくてじいちゃんの人生は翻弄された。じいちゃんは余りの惨めさに運命の神様を恨んだこともあった。しかし悪い事ばかりではない。親も兄弟もいないじいちゃんは大人の顔色を見ながら生きて行かねばならないことを悟った。今になって思えば発想の転換であった。親達が帰って来てからは余りの親達の身勝手さや、逃げ場のないやりきれない環境から悟ったことは、気配りや思いやりの大切さであった。 そして、自分が一人前になるまで我慢することの大切さも知った。学校に行く金も無く本を買うお金さえも無かったじいちゃんは、いつも自然の営みから自分の生き方や判断の基準を学んできた。 この、あばら家の生活で展望も開けず、絶望感や焦燥感から逃れるために、じいちゃんは夢を見ていた。今から45年程前から「自分の夢」と題して400字詰原稿用紙33枚書いてある。それを、常陽銀行神栖支店の貸し金庫No.7番に(当時貸し金庫の借り手がなくて銀行に進められて、じいちゃんは好きな7を、それと皆の幸せを願って選んで借りた)保管してあるから、お前達が大きくなったらパパに頼んで貸し金庫を開けてもらい読んで欲しい。 昼間は野良仕事で忙しかったので、いつも夜書いていた。雨戸はボロボロで外が丸見えであった。冬の夜は冷たい夜風が家の中をちょうどお前達暴れまわるように吹き抜けてゆく。かじかむ手に息を吹きかけながら、ちょうど5年がかりで書き上げた。 じいちゃんは第二次世界大戦中で先生が兵隊として出て行ってしまったので、小学生もろくに勉強ができず、文字を書くことが苦手だった。33枚も原稿を書いたことは大変なことだったが、じいちゃん自身が惨めさや絶望感と戦う唯一の手段であった。足元だけを見ていたら今の自分に負けて人生の荒波に押し流されてしまう。 じいちゃんは辛かった時は「こんな俺にもきっと『明日』という明るい日は必ずやって来る」と、自分に言い聞かせながら『明日』という二文字に夢を託して懸命に生きてきた。 悲しい事や辛い出来事ばかりであったけど、今では懐かしい人生の原点なのだ。色々な面でこの写真はじいちゃんの人生の宝物なのだ。 【写真は昭和17年9歳の時 鹿島神宮参道大鳥居 中央は細田益次郎先生】 小学校の思い出 じいちゃんが小学校1年生の時にじいちゃんのお父さんは、お母さんを追い出して自分もじいちゃんを捨ててどっかへ行ってしまった。 学校の帰り道でお母さんに遇った。「もさく、かあちゃんはボウシュウへ(母の実家)行くからな」と、言った。じいちゃんはボウシュウへ泊まりに行くと思い「早くけえってこいよ」と、言ってそのまま別れてしまった。それが最後の別れになるとも知らずに。お母さんはいくらたっても帰って来なかった。 当時、六歳のじいちゃんにはその事が何を意味するのか分からなかった。じいちゃんはお婆さんに育てられた。じいちゃんのおじいさんは物臭で、魚釣りや盆栽いじりばかりしてほとんど働かなかった。家族皆で働いても貧しかったのにお婆さん一人しか働かなかったので本当に貧乏だった。 皆の前では何も言わなかったが一人になった時はいつもお母さんの事を思い出しては泣いていた。タダ、じいちゃんは何故か、お父さんや、お母さんのことは一言もお婆さんには言わなかった。運命というのか、親子の絆が薄かったのか、それともばあちゃんに悪いからと思ったのか、それとも一人で頑張っているばあちゃんに心配をかけまいとの気配りだったのか。じいちゃんには今でも分からない。 小学校4年生の時鹿島神宮へ遠足に行きその記念写真にじいちゃんだけが裸足で写っていた。今年の鹿島神宮の祭頭祭に右方[賀郷]の大総督にみっくん(実芳)と、たーちゃん(隆秀)が選ばれて、大豊竹の奉納の日2月8日お前達が、パパやママと一緒に鹿島神宮の大鳥居の下で大豊竹の到着を待っていた時それを見ていたじいちゃんの目から急に涙が溢れてきた。 お前達と同じ年頃のじいちゃんの生活は今のお前達と比較したらまるで虫けらのような生活だった。だから、じいちゃんの夢は平凡で良いから家族皆で明るく幸せな生活を送るそんな家庭を夢に見ていた。 お前達が居て、パパやママが居て、じいちゃんやばあちゃんが居る、昔から夢に見ていたとおりの幸せな今の生活にじいちゃんの目から昔の悲しさや、今の喜びが一緒になって感動の涙が出てきた。 皆に涙を見られたくなかったのでお前達に背を向けて後ろを見た、その瞬間じいちゃんの目に飛び込んできた光景があった。その瞬間じいちゃんの記憶から消え去っていた辛く悲しい思い出したくない記憶が目の前に在った。 大鳥居をくぐると石段の右端の一段目の右から三人目に、一人裸足でいるのが恥ずかしくて逃げ出したくなるような気持ちから、カメラに顔を背けてうつむいて寂しそうに足をカメラのレンズから隠すように写って居るのがじいちゃんだ。 遠足が決まって、靴が壊れてしまっていたが一人で働いている、お婆ちゃんに靴が欲しいと言えなかった。じいちゃんは古びた藁ぞうりを履いて遠足に出かけたが途中で鼻緒が切れてしまったので捨ててしまった。裸足を皆に見られるのが恥ずかしくて皆から離れて後から歩いていた。 あんなに、恥ずかしく、惨めな、逃げ出したくなるような幼い頃の悲惨な環境をバネにじいちゃんは頑張ってきたので今がある。その、体験をお前達に伝言として、大きくなったら読んで欲しいそして、人間として一番大切なことを分かって欲しいから記録しておく。 孫達への伝言 じいちゃんより |
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